誰に、何のために書くか?

小崎哲哉(ジャーナリスト/アートプロデューサー)

 私は京都を拠点とするジャーナリスト、アートプロデューサーです。カルチャー雑誌の編集者およびレビュワーとして仕事を始め、アート雑誌やカルチャーウェブマガジンを創刊・運営してきました。2013年にはあいちトリエンナーレ舞台芸術部門の総合プロデューサーを務め、数回ですが現代アート展をキュレーションしたこともあります。

 書籍の執筆と編集も行っていて、2002年に『百年の愚行』、2014年に『続・百年の愚行』という書物を刊行しました。前者は20世紀、後者は21世紀に人類が犯した戦争、差別、難民問題、環境破壊、経済格差などの愚行についての写真を集め、それぞれに私自身が書いた文章と、小説家の池澤夏樹、鄭義、人類学者のクロード・レヴィ=ストロース、映画監督のアッバス・キアロスタミ、物理学者のフリーマン・タイソン、政治学者のベネディクト・アンダーソン、哲学者のベルナール・スティグレールらの寄稿を収録したものです。昨年は『現代アートとは何か』と題する著書を発表しました。今日は現代アートを中心に、舞台芸術を含む現代カルチャー全般に応用可能なものとして、現代においてアート的言説が果たすべき役割について話したいと思います。

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 さて今日、アート的言説にとって最大の問題は何か?

 誰もが危惧しているのは読者の減少でしょう。現代人はかつてのようにはアート的言説を読まない。したがって言説の影響力も低下している。

 アート批評家のハル・フォスターが2001年に発表した論考は「アート批評家は絶滅危惧種である」という一文で始まっています。『アートフォーラム』と『オクトーバー』に寄稿する「2種の批評家」について説明した後、フォスターは以下のように続けます。

 制度的には、2種の批評家はどちらも80年代と90年代に、新たなディーラー、コレクター、キュレーターたちに追い出されてしまった。この一群の連中にとって、理論的な分析は言うに及ばず、批評的な評価はほとんど役に立たなかったのだ。実際、たいていの場合こうした事柄は邪魔者扱いされ、悲しいかな、いまでは多くのアートマネージャーやアーティストが、批評的評価を回避することに努めている。(*1)

 昨年(2018年)ピューリッツァー賞を受賞した人気アートジャーナリストのジェリー・ソルツは、2006年に自らの実感を記しています。

 この50年間で、今日ほどアート批評家が書いたものがマーケットに影響を及ぼさなくなった時代はない。あの作品は悪いと書くことはできても、それはほとんどあるいはまったく影響しない。良いと書くこともできるが、結果は同じだろう。まったく書かなくても同様ではないか。(*2)

 このふたりは現代アートについての書き手であり、クレイジーなアートマーケットに批評が拮抗し得ない状況を嘆いています。一方、2008年に、映画批評家パトリック・ゴールドスティーンが『ロサンジェルス・タイムズ』に寄稿した記事は、フォスターによく似た一文を含みながらも、同様の事態を別の角度から見ています。

 今日の批評家は絶滅の危機に瀕した文化的恐竜と見なされている。(中略)批評家は、クラシック音楽、ダンス、演劇であろうと文化芸術の他の領域であろうと、あらゆる場所で削減されつつある。ここでは経済学が明らかに機能していて、自分たちのビジネスモデルは破綻しそうだと見て、多くの新聞が今後は批評家を全員抱えているわけにはいかないと決め込んでしまった。この時代には、批評の役割についてまったく異なるアプローチをしなければならないのは明らかであるように思える。(*3)

 続いてゴールドスティーンは以下のように述べます。

 この変化には、明らかにインターネットが大きな役割を果たしている。ネットは意見表明の民主化を促進し、個人ブロガーが巨大ニュース組織を凌駕できるようになった。(同)

 3人の議論を要約するなら、アート市場の肥大化、そしてインターネットとソーシャルネットワークの普及が、アート的言説の読者減少と影響力の低下をもたらした、ということになるでしょう。この認識は現在、多くの関係者に共有されていると思えますが、では我々は、事態を変えるためにどんなことができるでしょうか。

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 その議論に入る前に確認しておきましょう。アート的言説とは何か?

 大雑把に言えば、それは以下の5種に分類されます。歴史。理論。批評。レビュー。ジャーナリズムにおけるアート関連記事。それぞれの境界はときに曖昧で、いくつかを兼ね備えた言説もあります。アート史とアート理論についての定義と説明は、とりあえずは不要でしょう。問題は、アート批評、アートレビュー、そしてジャーナリズムの相違点です。

 2018年11月18日付の『オブザーヴァー』に「この私見の時代に我々はまだ批評家を必要としているか」という見出しのインタビュー記事が掲載されました。「私見の時代」とは、多くの人々がネットに個人的意見を投稿できる現代のことを指します。同紙の演劇記者スザンナ・クラップは、「2018年現在、批評は何のためにあるか」という質問に以下のように答えています。

 理想的には、あまり尊大にならずに、アートや書籍や芝居をもっと広い世界に導くために、主張を展開するようにすべきでしょうね。芸術と自分が「貴重な交流」を持つんじゃなくて、むしろ自分を開いて。(*4)

 見出しにも質問にも「批評」とありますが、これはレビューについての典型的なコメントでしょう。「もっと広い世界」とは読者・観客・聴衆のことであり、レビュワーは、レビューが取り上げる作品の魅力を、作品の潜在的鑑賞者である読者に向けて書く。彼らを対象とする新聞記者としては当然の見解です。では、他の言説においてはどうか。

 「critic」と名乗る書き手が多いこともあって、一般読者は、そしてときに専門家である本人も勘違いしていることがありますが、この三者はすべからく相異なるべきです。それぞれの読者は誰であり、その目的は何か。簡単な対照表をつくってみました。

 なお、批評の「目的」に「鼓舞激励」と書きましたが、これはもちろん称賛のみを意味するものではありません。つくり手にとって耳の痛いことも、それが的確であるならば書かなければならない。叱責が人を育てることもあることは言うまでもありません。

                             

       |読者        |目的        

批評     |つくり手      |創作のための鼓舞激励

レビュー   |鑑賞者       |情報提供と解説・批判

ジャーナリズム|鑑賞者と社会    |同上+状況解説・批判

 「読者」の欄に記した「つくり手」は、アーティスト、著者、映画監督、演出家、演者らのほか、キュレーターや制作者も加えた発信者全般です。「鑑賞者」にはつくり手が、「社会」には芸術文化に無関心な人も含め、あらゆる人々が含まれます。言説が発表される媒体が新聞、雑誌、ウェブサイトなど一般に開かれたものであれば、すなわち誰かに当てた私信でなければ、その言説は誰にでも読めるからです。とはいえ、一義的な読者は表に挙げた人々であるべきだとする人が多数派でしょう。すなわち、実際に誰が読むかにかかわらず、批評家はつくり手を、レビュワーは鑑賞者を、ジャーナリストは社会の成員全員を、本来的な想定読者として書いているはずだし、書くべきなのです。

 批評家もレビュワーもジャーナリストも、具体的な作品について執筆します。活動の場、つまり寄稿する媒体が重なることもありますが、批評家を名乗りつつレビューしか書いていない人もいれば、逆に批評としか呼びようのない文章をレビュー欄に執筆する書き手もいます。前者が目立ち、後者が少数である現状を見ると、批評家をレビュワーよりも上に見る「批評家コンプレックス」とでも呼べる病が流行しているのかもしれません。

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 それはさておき、レビューと批評の違いについて、もう少し詳しく、失礼ながらアーティストを動物に喩えて説明しましょう。昨今は「猛獣」と呼べるような凶暴なアーティストはあまり見当たらないようですが、ともあれ、つくり手は動物であり、レビュワーはサーカスの案内役です。サーカスの愛好家にして常連として、来場者に鑑賞の楽しみを説き、見るべきポイントを教示する。動物の振る舞いや、サーカスの出し物を批判する自由はあるけれど、それよりも、わかりやすい解説、エンタテイニングな語り口で読者を楽しませ、共感させ、結果的に動員に資することが期待されています。

 批評家は案内役ではなく、動物の生態や生物史、そしてサーカスの歴史に詳しい外部の見巧者です。その批評は「飴と鞭」から成ります。サーカスに雇われているわけではないので、動物の毛並みや身のこなしや演技はもちろん、演出を批判することもできる。ただし、飼育係や調教師、もとい、展覧会や公演の企画制作者、あるいは他の見巧者の反発・反論はありうるし、動物だって飴を舐め、鞭に叩かれっぱなしになるとは限らない。ときに牙を剥き、襲いかかることもあれば、飴や鞭を無視することもあるでしょう。猛獣が猛々しくあればあるほど、簡単に行いを改めたりしないことは言うまでもありません。

 マイルス・デイヴィスは評論家を嫌っていました。アンディ・ウォーホルは「自分について書かれたことを気にする必要はない。どのくらいのスペースか測るだけでいい」と発言しました。抽象表現主義の画家バーネット・ニューマンの「画家にとっての美学とは、鳥にとっての鳥類学に等しい」という言葉もよく知られています。世界的に著名なあるアーティストは「新しい作品のために着想を練ったり、実際につくったりするのに忙しくて、批評を読んでいる時間などない。読もうが読むまいが、歴史的評価はいずれ定まる」と私に語りました。いずれも、強がりやシニシズムではなく本音だと思います。

 それはそれとして、批評には本来、創作の方向性をすら曲げうる力があります。例えば、1950年代を中心にフォーマリズム批評で一世を風靡したクレメント・グリーンバーグ。抽象表現主義を擁護し、ジャクソン・ポロックらを絶賛したことで知られるこの批評家は、絵画にとって最も大事なのは「画面そのものが平らになって、(中略)ついには実際のキャンバスの表面である現実の物質の面上で一つになることである」と、メディウム(媒体)に固有の性質——絵画においては二次元性——を追求することが重要だと強調しました(*5)。

 この主張は同時代米国のアーティストを強く感化し、モダニズムを確立させ、運動を生じせしめるに至りました。ジャーナリストのトム・ウルフは、グリーンバーグの言葉を文字どおりに受け取ったとされるモーリス・ルイスの気持を(本人の承諾も得ずに)代弁しています。「下塗りもしないキャンヴァスを使い、絵具を塗るときにも、それがじかにキャンヴァスに浸みこむまで薄めた。(中略)やったぜ! 画面の上にも下にも、何もない。(中略)いまやすべては画面のなかにしかなかった」(*6)と。

 グリーンバーグとルイスとの関係はそれほど単純ではなかったという説もありますが、それはともあれ、優れた理論や批評がつくり手に大きな影響を及ぼし、それ以降の作品を質的に高めた事例は、歴史的に多々あったのだと思います。

 ところで、いま名前を挙げたマイルス・デイヴィス、アンディ・ウォーホル、バーネット・ニューマン、ジャクソン・ポロック、モーリス・ルイスはいずれも故人です。彼らの死後に、彼らについて書かれた言説は多数あります。マルセル・デュシャンは「死ぬのはいつも他人」という名言を遺しましたが、亡くなった芸術家を対象とする批評は、古代ギリシャの劇作家からフレディ・マーキュリーに至るまで、枚挙に暇がない。いま生きている人間よりも死んでしまった人間のほうが多いのですから、死者について書かれた文章のほうが多いのは当然です。そのような、過去のつくり手や作品について書かれた批評も、良い批評であれば、同時代の、そして未来のつくり手を鼓舞します。重要なのは、批評が新たな創作に資するかどうか。どの時代のものであれ作品を的確に読み解き、あるいは作品の新たな読み解き方を提示し、これから何かをつくろうという人に刺激とヒントを与えるものであれば、それは良い批評です。先ほどの表に加筆してみましょう。

                                        

       |対象(何を)   |読者(誰に)     |目的(何のために)    

批評     |過去と同時代の作品|同時代と未来のつくり手|創作のための鼓舞激励  

レビュー   |同時代の作品   |同時代の鑑賞者    |情報提供と解説・批判

ジャーナリズム|同時代の作品と状況|同時代の鑑賞者と社会 |同上+状況解説・批判

 また、アート史と理論と批評は、同時代だけではなく未来の読者にも向けて書かれます。アート史とアート理論を加えれば、以下のようになります。

                                        

       |対象(何を)   |読者(誰に)     |目的(何のために)     

アート史    |過去の作品と理論 |専門家+一般     |研究+作品の位置付けアート理論  |過去と同時代の理論|専門家+一般     |作品の解釈・理解  

批評     |過去と同時代の作品|同時代と未来のつくり手|創作のための鼓舞激励  

レビュー   |同時代の作品   |同時代の鑑賞者    |情報提供と解説・批判

ジャーナリズム|同時代の作品と状況|同時代の鑑賞者と社会 |同上+状況解説・批判

 これが、現在までプロフェッショナルな書き手に共有されている「棲み分け」の図かと思います。けれども、この棲み分けは未来永劫にわたって正しいのでしょうか。いや、未来永劫と言わず、まさにこの時代において正しいと言えるのでしょうか。

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 ここで、美学者ボリス・グロイスの主張に耳を傾けることにしましょう。当代きっての批評家にして理論家との呼び声が高いグロイスは、2012年5月に発表した「Under the Gaze of Theory(理論が見守る中で)」という論文で、以下のように断言しています。

 今日の大衆は、ある作品が「わかる」とは必ずしも感じていないときでさえ、現代アートを受け入れている。アートの理論的な説明を求める声は、かくして決定的に過去のものとなったように思われる。

 しかしながら、理論が今日ほどアートにとって重要であったことはない。(中略)私が思うに、今日においては、自分たちが何を行っているのかを説明するために、アーティストが理論を求めている。ほかの誰にでもなく、自分たちに対して。この点に関しては、作家たちは孤独ではない。(*7)

 

 かつてアートの創作とは先行世代への異議申し立てを意味していた。ところが近代化によってグローバル化が進み、唯一であったはずの(西洋の)伝統は急激に崩壊し、無数の伝統と無数の異議申し立てがあふれるようになった。そのような状況下では、何がアートであるのかを説明する理論が求められる。そのような理論こそが、現代のアーティストの作品を普遍化し、グローバル化する可能性を与えてくれるからだ。理論に頼ることによって、作家は自らの文化的アイデンティティや、特定の地域の変わった作品と受け取られる危険性から解放される。これが、現代において理論が盛んである主な理由である……。

 グロイスは自らの主張の論拠をこのように説明します。いまや理論は、一般鑑賞者、同業者である理論家や研究者のために書かれるのではなく、批評と同様につくり手こそを読者対象としているというわけです。

 もちろん、グロイスが現代アートを専門としていることを考慮に入れなければなりません。音楽や舞台芸術とは異なり、現代アートは明確に西洋起源の芸術です(少なくともグロイスは、そして私もそう考えています)。現代アートが、非西洋アートを包摂することによってその版図を広げてきたのは歴史的事実であり、西洋国家が主要なプレイヤーとして進めてきたグローバル化の時代にあって、何がアートで何がそうでないかを帝国主義的に認定するグロイスの議論が西洋中心的だという批判は当然成り立ちます。

 その批判はしかし、ここでは展開しません。それよりも、理論や批評が創作に与える刺激を肯定的に評価したいと思います。ある種の理論や批評はつくり手を直接に励まし、奮い立たせ、進むべき道を提示する。ボリスがイリヤ&エミリア・カバコフを理論的に、そして作品批評を通じて擁護してきたことはよく知られていますが、「criticism」の語源であるギリシャ語の「krinein」は、選別し、決定することを意味します。よき批評家は、つくり手が歩むべき道を選別・決定するのです。

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 ところでグロイスは、現代のアーティストについて、さらに興味深いことを述べています。「過去数十年の間に芸術行為それ自体も抜本的な変革を経てきている。(中略)芸術家は、理想の芸術生産者から、理想の芸術鑑賞者へと変貌した」と言うのです。(*8)

 実際、マルセル・デュシャン以来、遅くとも50-60年代のポップ・アート以降、芸術家は次第にアートの生産者として振る舞うことを止め、その代わりに自らを、我々の社会において絶え間なく生産され、マスメディアによって永続的に広められる記号や映像やものを観察する者、解釈する者、そして批評する者と見なしている。誰もが、そして何もかもが美的になり、デザインされた世界において、唯一欠けている要素は鑑賞者なのだ。(中略) 今日の先端的な芸術がほかの何よりも批評的であろうとしている事実だけで、芸術家の役割が生産者から鑑賞者に変わったことを証明するに足りる。(中略) 今日の芸術家はもはや何も生産しない、あるいは少なくとも生産を最重要視しない。芸術家は何かあるものを選別し、比較し、断片化し、組み合わせ、ほかのものは除外して、文脈化することを好む。言い換えれば、今日の芸術家は、鑑賞者の批判的で分析的な眼差しを我がものとしているのだ。(同)

 一方、グロイスの文章に名前が引かれているマルセル・デュシャンは、つとに1957年、以下のように述べています。

 つまるところ、創造的行為はアーティストだけでは果たされません。鑑賞者が、作品の内なる特質を解読し、解釈することによって作品を外界に接触させ、かくして自らの貢献を創造的行為に加えるのです。このことは、後世が最終的な判断を下し、忘れられたアーティストを折々に復権させることによって、さらに明らかになることでしょう。(*9)

 あまりにも有名なこの宣言の後、サミュエル・ベケットが「だれが話そうとかまわないではないか」を、ウンベルト・エーコが『開かれた作品』を、ロラン・バルトが「作者の死」を、ミシェル・フーコーが「作者とは何か?」を世に問うたのはご存じの通り。「作品はそれ自体では完結しない。つくり手がつくった後に、鑑賞者が鑑賞することによって初めて成立する」ということは、いまや万人に共有される自明の理になりました。哲学者のジャック・ランシエールは、さらに踏み込んだ形でこの議論を進めています。

 観客は観察し、選択し、比較し、解釈する。自分が見ているものを、違う舞台のうえであるいは別種の場ですでに目にした数々のものに結びつける。そして自分の目の前にある詩を構成する要素を使って、自分自身の詩を組み立てる。パフォーマンスを自分なりにやり直すことで、それに参加するのである。(中略)こうして、観客は距離をとった観客であると同時に、提示されたスペクタクルの能動的な解釈者ともなるのである。(*10)

 グロイス、デュシャン、ランシエールらの主張が正しいとするなら、現代の芸術には、より正確に言うなら現代における芸術の創作と鑑賞には、一般にはあまり知られていない大きな地殻変動が起こっていると断じざるを得ません。芸術家と鑑賞者の間に境はなくなった。そして、芸術家=鑑賞者は同時に批評家でもある存在となった。だとすれば、そんな時代において、アート的言説はどのような役割を果たすべきでしょうか。

 私は、アートについて書く者すべてが、批評家の読者と目的を目指すべきだと考えます。

先ほど以下の表を見せました。

                                         

       |対象(何を)   |読者(誰に)     |目的(何のために)     

アート史    |過去の作品と理論 |専門家+一般     |研究+作品の位置付けアート理論  |過去と同時代の理論|専門家+一般     |作品の解釈・理解  

批評     |過去と同時代の作品|同時代と未来のつくり手|創作のための鼓舞激励  

レビュー   |同時代の作品   |同時代の鑑賞者    |情報提供と解説・批判

ジャーナリズム|同時代の作品と状況|同時代の鑑賞者と社会 |同上+状況解説・批判

 これを次のように一本化するわけです。

      |対象(何を)         |読者(誰に)     |目的(何のために)     

アート的言説 |過去と同時代の作品・理論・状況|同時代と未来のつくり手|創作のための鼓舞激励  

 読者が芸術家(つくり手)=鑑賞者=批評家であるなら、これは当然の論理的帰結です。

 5種の言説の目的は、ここで「創作のための鼓舞激励」に収斂されます。「研究+作品の位置付け」も「作品の解釈・理解」も「情報提供と解説・批判」も「状況解説・批判」も、すべてが「創作のための鼓舞激励」に資するものとしてある。芸術家も鑑賞者も批評家も、また三者が一体になるのであればなおさら、望むのは「良い作品を観たい」ということに尽きるでしょう。だとすれば、これもまた当然の論理的帰結です。

 最近の舞台芸術畑の言説から一例を挙げましょう。2019年3月に発表された岩城京子の「ベルリン・劇場の現在——フォルクスビューネ問題を中心に」です。(*11)岩城はジャーナリズムからアカデミズムに転じ、ロンドン大学ゴールド・スミス校で博士号を取得した演劇研究者です。

 皆さんご存じかと思いますが、2017年の秋に、クリス・デルコンがベルリンはフォルクスビューネのインテンダント(芸術監督)に就任しました。フォルクスビューネは「旧東ドイツと分かちがたく結びついた歴史を持つだけでなく、1989年以降の左翼的文化実践の重要な場所でもある」(*12) 百年以上前に創設された劇場です。一方、デルコンはテート・モダンの元館長。私も自著で批判しましたが、「経験を生み出す場、他者と過ごす社会的・社交的な場としての美術館」という主張の下、巨大美術館のポピュリズム化を進めたキュレーターです。デルコンの起用は着任以前から反発を買い、抗議デモや劇場占拠などが相次ぎ、新任インテンダントはわずか255日で辞任を余儀なくされました。

 岩城は事の経緯を簡単に説明し、まずは「果たしてこれは、旧東ドイツ時代から連綿とつづく頑迷な労働者階級のネオリベラリストに対する高らかな勝利宣言なのだろうか?」という問いを投げかけます。その上で「労働者階級」と「ネオリベラリスト」をともに批判し、続いてクレア・ビショップが、主に英米圏の美術館でダンスが上演される最近の流れを論じた「Black Box, White Cube, Gray Zone」を紹介。後半ではこの論文を援用して、デルコン在任中の2017年11月にフォルクスビューネで上演された「サミュエル・ベケット/ティノ・セーガル」におけるセーガルのパフォーマンス、正確に言えばその演じられ方と上演場所や観客との関係を批判的に分析しました。最終的には、グローバルとローカルの間の埋めがたい距離のために「残念ながら、ブラックボックスとホワイトキューブのあいだにあるべきグレイゾーンは、フォルクスビューネのホワイエには現出しなかった」。そして「国際市場の数値化された観客の扱いに慣れたデルコンの最大の誤算は、ドイツのなかでも特に歴史性・文化性・地域性が物を言うフォルクスビューネという劇場で、同じように観客を『非人称化』してしまった点にある」「おそらく劇場は決して非人称化してはならない社会装置のひとつなのだ」と結論づけています。

 セーガルのパフォーマンスについては、評価は分かれるかもしれません(私は未見なので何とも言えません)。けれども、この文章は「過去と同時代の作品・理論・状況」を対象とし、「同時代と未来のつくり手」を読者とし、「創作のための鼓舞激励」を目的とするという、今日のアート的言説に求められるすべての必要条件が備わっていると思います。一例として紹介した所以です。

 

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 ここで拙著『現代アートとは何か』について説明しましょう。ウェブマガジン『ニューズウィーク日本版』に連載した記事をまとめたもので、当時のタイトルは『現代アートのプレイヤーたち』。前半では、コレクター、ギャラリスト、キュレーター、批評家、そしてアーティストの役割を解説しました。目次を以下に示します。

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序章 ヴェネツィア・ビエンナーレ——水の都に集まる紳士と淑女

1 マーケット——獰猛な巨竜の戦場

  億万長者の狩猟本能/スーパーコレクターたちの戦い/王女はNo.1バイヤー/ディーラー——ガゴシアン帝国の栄光と闇/「POWER 100」——アート界を映す鏡の裏側

2 ミュージアム——アートの殿堂の内憂外患

  香港M+館長の電撃辞任/スペインと韓国と日本の「規制」/不可視のコレクションとの戦い/MoMAの迷走/テート・モダンの迷走

3 クリティック——批評と理論の危機

  絶滅危惧種としての批評家/絶滅危惧種としての理論家と運動/美学はどこへ行った?/ボリス・グロイスの理論観

4 キュレーター——歴史と同時代のバランス

 『大地の魔術師』展とドクメンタIX/ジャン=ユベール・マルタン——セックスと死と人類学/ヤン・フート——「閉ざされた回路」の開放/「縦」のフートと「横」のマルタン

5 アーティスト——アート史の参照は必要か?

  日本の現代アートと「世界標準」/ヒト・スタヤルとハンス・ハーケの闘争/引用と言及——揺れる「アート」の定義/サミュエル・ベケットと現代アート/デュシャンの「便器」の果てに

6 オーディエンス——能動的な解釈者とは?

 鑑賞者の変貌/現代アートの3大要素

7 現代アートの動機

  1)新しい視覚・感覚の追求/2)メディウムと知覚の探究/3)制度への言及と異議/4)アクチュアリティと政治/5)思想・哲学・科学・世界認識/6)私と世界・記憶・歴史・共同体/7)エロス・タナトス・聖性

8 現代アート採点法

9 絵画と写真の危機

終章 現代アートの現状と未来 

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 私がこの本を書いた理由はいくつかあります。最も根本的な理由は、書名が示す「現代アートとは何か」という問いを真剣に考えている人が、アートワールドの中でさえあまりいないと思われるからです。近代以前のアートにそうした側面がなかったとは言いませんが、現代のアートにおいては「アートとは何か」という根源的な問いを問わずには、創作も鑑賞もありえない。ところが現状ではその問いに無関心な人が少なくない。

 それなのに、少数の「真剣に考えている人」が「現代アートとは何か」をきちんと説明しようとしない。「わかる者にしかわからない」という諦念、あるいは「わかる者だけわかればいい」というエリーティズムが主な原因です。この傾向は非欧米地域に限られるのかと思ったら、どうやらそうではなく、現代においてはアートの本場である欧米も同じような状況にあるようです。だからこそ批評の凋落が叫ばれるのでしょうが、欧米はさておき、まずは現代アートとこの問いへの日本語読者の関心を喚起したいと思った次第です。

 そのためにはまず、同時代のアートワールドで何が起こっているかを紹介したいと考えました。日本では言語の壁が立ちふさがり、海外のニュースが十分に伝えられない憾みがあります。2003年に私が創刊した和英バイリンガルの『アートイット』は現在ウェブ版だけが存在していますが、アートメディアといえば、ほかには1948年に創刊された『美術手帖』のみ。その『美術手帖』は昔も今も日本語版しかなく、しかも、2015年には経営不振によって他社の傘下に入り、月刊から隔月刊に変わりました。日本のアートジャーナリズムは危機的状況にあります。

 というわけで、拙著は同時代のアートをめぐる状況を国際的に概観し、(特に1989年以降の)重要なアート史的事件を取り上げて解説し、読まれるべき理論を簡単に紹介し、アートの見方を教示しながら作品論もいくつか記しています。

 強調しておきたいのは、本の中で時代状況にも触れていることです。アートは歴史的に、そして時代ごとに存在してきた表現領域であり、その意味で通時性と共時性、すなわち一般的な歴史や社会状況と不可分です。特に、ドナルド・トランプとウラジーミル・プーチンと習近平、それにモディ、キム・ジョンウン、ネタニヤフ、エルドアン、オルバーン、ドゥテルテ、安倍ら「自国第一主義」を公然と唱える強権的な政治家が支配する現代において、心ある芸術家は政治社会状況に敏感であらざるを得ないでしょう。GAFAをはじめとする巨大グローバルIT企業によるデータ独占や、環境問題、ゲノム編集をめぐる倫理問題など、この時代ならではの問題が多数あることもいまさら言うまでもありません。

 先に述べたように、私が企画・編集・執筆した『百年の愚行』と『続・百年の愚行』は、戦争、差別、難民問題、環境破壊、経済格差などの諸問題を取り上げています。いまやそれらが「狂気」と思えるほどに拡大・蔓延してしまった。アーティストがこうした問題を主題とするのは、本意ではないかもしれませんが当然であると言えるでしょう。

 アーティストやアート関係者はアート史を踏まえていなければならない、というのが現在でも共通認識かと思います。専門家としてそれは当然でしょうが、この時代においては「専門バカ」であってはいけない。むしろ、同時代の様々な事象、その原因としての歴史について知った上で、自分なりの見解を持っていなければなりません。芸術家=鑑賞者=批評家である我々は、そう心得ておくべきです。

 冒頭で「アート的言説にとって最大の問題は読者の減少だ」と述べました。けれども私は、さほど未来を悲観視してはいません。どの時代であっても人は良い創作を求めるものだし、だとすれば創作を鼓舞する良い言説は必ずや読まれるだろうからです。同時代の読者に届かなかったとしても、未来の読者がその言説を発見(再発見)する可能性はあります。これは現代アートであれ、舞台芸術であれ、文学、映画、音楽であれ同じことでしょう。重要なのは、読まれるに足る水準の言説を書こうと常に心がけることだと思います。

(*1)Hal Foster, ‘Art Agonistes’, New Left Review, March/April 2001

(*2)Jerry Saltz, ’Silence of the Dealer’, Modern Painters, September 2006

(*3)Patrick Goldstein, ‘The End of the Critic’, Los Angeles Times, April 8 2008

(*4)https://www.theguardian.com/culture/2018/nov/18/do-we-still-need-critics-susannah-clapp-simran-hans

(*5)クレメント・グリーンバーグ「さらに新たなるラオコオンに向かって」(藤枝晃雄編訳『グリーンバーグ批評選集』所収)

(*6)トム・ウルフ『現代美術コテンパン』(高島平吾訳)

(*7)https://www.e-flux.com/journal/35/68389/under-the-gaze-of-theory/

(*8)ボリス・グロイス「観客のインスタレーション」(清水穣訳。森美術館『イリヤ&エミリア・カバコフ 私たちの場所はどこ?』展カタログ所収)

(*9)マルセル・デュシャン「The Creative Act(創造的行為)」(ミシェル・サヌイエ編/北山研二訳『マルセル・デュシャン全著作』所収「創造過程」を改訳)

(*10)ジャック・ランシエール『解放された観客』(梶田裕訳)

(*11)岩城京子「ベルリン・劇場の現在——フォルクスビューネ問題を中心に」(『舞台芸術』22号)

(*12)Sven Lutticken, “On the Volksbühne Occupation”, Texte zur Kunst, October 3 2017