表層と断絶を越えて:デジタルの転換を迎えたアジアにおける芸術とメディアの生存と繁栄

Clarissa Oon

「芸術メディア」に私が出逢ったきっかけから、はじめましょう。

1990年代初期、「インフルエンサー」と呼ばれる人々は新聞のページを飾り、テレビのスクリーンに映り、電話とは線の向こう側の人と実際に話すためのものでした。外界で起こっていることを知るために、周りの人と同じく、私も新聞を毎日購読していました。

期待に満ち、わくわくしながら入った演劇部にいた頃、Hannah Pandianの特集を見つけました。シンガポールの全国紙The Straits Timesに掲載された1990年代前半の演劇批評には、劇団におけるプロフェッショナリズムの高まり、芸術に対する資金調達と教育のエコシステムの広がり、元来から演劇に使われてきたステージ上の言語の結晶化のような、シンガポールにおける劇場の最前線の動きが掲載されていました。

その当時、画期的な作品として世を風靡したOff Centre (1993)は、シンガポール社会における不寛容さに対する告発の高まりを、メンタルヘルスに問題を抱える二人の若者の目を通して描いた作品。Hannahは「Off Centreはシンガポールにおける劇場の成熟を示し、聴衆に対する挑戦を迫った」とレビューに残した時、政府から支給される資金調達で運営される芝居は、シンガポールの劇場において古い伝統と見なされること、学舎で学ぶこと、近年になってようやく見直され始めたことに気づき、自分自身が聴衆に応えていないことを後悔しました。(2007年になって、The Necessary Stageによる作品を観ることとなりました。)

Hannahは、1986年から1996年にわたりThe Straits Timesのビジュアルアーツと劇場について記述した前アート編集者T. Sasitharanと共に、鋭いコラムとレビューを残しました。アーツに関する記述において、この鋭さと献身さに欠けた過去のジャーナリスト達の記事は、HannahとSasiによる記述の量と厳格さに勝ることはなく、二人の記述はその後15年から20年にわたってシンガポールの芸術メディア新聞への影響を残すこととなりました。

Hannahのコラムを追いかけ始めてから数年、あろうことか私はHannahと同じ仕事をしているのに気づきました。アート編集者としてのSasiの仕事も、その後受け継ぐこととなりました。The Straits Timeへの傾倒により、新聞のアーカイブを通した1958年から2000年にかけてのシンガポールにおける劇場に関する歴史の執筆を可能にしたのです。

The arts, the media and Asia

アート、メディアとアジア

どのように私がこの産業に足を踏み入れるに至ったかを記したこれまでの自己紹介から、浮かび上がるテーマが見えます。プロフェッショナルのアート編集者や批評は、アートへの幅広い気づきを与え、批評資格に足る聴衆を育て、若手の編集者を感化させました。アートのインパクトはごく一瞬である場合もあり、展示やパフォーマンスも一度きり。しかし、たとえ一度であったとしても、数週間後には反芻し、脳裏に歌やあらすじ、動きの断片が蘇ることもあります。アートに関する記述は、重要なドキュメンテーションとしての行為であり、優れたアートとは何か、それに関連するアートとは、一方で使い捨てのように忘れ去られるアートや、画期的なアートとは何かについての議論を促します。

議論がもてはやされる中、まず始めに関心を寄せるべきは、優れた文章やコンテンツの未来です。デジタル機器を通してニュースを無料で手に入れられるようになり、より多くの人が良いコンテンツに対してお金をかける準備がある現代、何を見るか、何を聞くかを自由に選べるようになった消費者の動向は変化し、アート界も喧騒に包まれています。「過去に縛られた」アートとメディアは、いかにその断絶を超え、社会の中でアートの関心層の議論を深め続けることができるのでしょうか。また、アジアにおけるアートとメディアに、いかに意義をもたらすのでしょうか。

基調講演では、次の3つの分野に焦点を当て、お話をします。1) デジタル・ソーシャルメディアの現況に対応した、新たな資金調達モデルと、メディアのフォーマット。2) メディアやブランド以上に、ソーシャルメディアにおけるインフルエンサーの影響力が高まり、スレッド上のコメントで心無い言葉が飛び交うようになった概況において、芸術メディアのコンテンツを通して、いかに意義のあるコミュニティを形成していくか。3) アートの執筆やアートの取材を手がける次世代のプロのアーティストやアートメディアのスペシャリスト育成の必要性について。

その前に、重私たちがアジアで活動する上で欠かせない文脈の多様性に基づく、重要な用語の定義から始めます。まず、「芸術」とは何でしょうか。あらゆる形態やジャンルの中に芸術は構成され、その境界に沿って浮かぶものであると考えがちですが、私は娯楽ベースの消費とは一線を画す、思慮深い、包絡を押し上げる文化的慣習として、芸術を定義します。つまり「芸術」とは、劇場、音楽、ダンス、文学、またはこれらの形式のいずれかの交差点で機能し、個人に挑戦し、世界を変えるもの。ただ単に、感覚をくすぐったり、短期的にお金を稼いだりすること以上のことが芸術です。

次に、誰が、何が「芸術メディア」と呼べるのでしょうか。メディアの所有者は、この場合メディア企業、芸術センター、アーツカウンシル、アート系企業等、芸術家や芸術団体の枠組みを越えながら、芸術について執筆やプロファイリングを専門とするあらゆる組織と言えるでしょう。例えば、アジアで最も自由で活気のある文化都市の1つである台湾では、国立劇場コンサートホールが毎月、中国語で芸術マガジン「PAR演藝術」を過去27年間にわたり出版しています。アジア太平洋地域において、間違いなく最長の刊行期間を誇ります。長期にわたる取材やレビューは、これまでの台湾芸術界におけるトレンドや発展を詳しく説明し、台湾の芸術家や聴衆に対しても世界有数の舞台芸術を紹介しています。紙媒体以外にも、購読やダウンロードが可能な電子版があり、そのWebサイト上では雑誌のコンテンツを抜粋するほか、PARとNTCHで制作されたビデオも掲載しています。

シンガポールの国立舞台芸術センターであるEsplanade ー Theatre on the Bayは、1997年から2003年にかけて、The Arts Magazineと呼ばれる雑誌を隔月で出版していました。そのフォーマットは台湾の「PAR演藝術」と、特集、インタビュー、レビューのセクションに至るまで、非常に類似していました。刊行が中止された時には、シンガポールの芸術家と芸術愛好家は落胆しましたが、その時代であっても、小さな都市の小さい市場において、ニッチな雑誌を販売することより継続収入を得るのは困難でした。2013年に、Esplanadeが芸術のプレゼンター、プロデューサー、そして会場として名を馳せてから創立10周年を迎えて間もない頃、私はThe Straits Timesのシニアライターとして、とりわけ個人がどこに導かれるのかを意識しないまま、論説を執筆していました。

          芸術センターは、21世紀の観客を惹きつけるために、さらに注力することが可能です。…情報過多の時代において、観客はパフォーマンスを見ることを決心する前に、芸術家に関する知識をより深く求めるようになりました。彼らは、自分の指先で、モバイルデバイス上で、そして関連するビデオを視聴して、ひとつのシームレスな経験を通してのチケット購入を望んでいます。10年前、 EsplanadeはThe Arts Magazineと呼ばれる雑誌を隔月で出版していました。示唆に富む、啓蒙的な雑誌ではありましたが、持続性を保てるほどの販売と購読サブスクリプションには至りませんでした。そのように、真剣に考え抜かれたコンテンツは、芸術への興味をそそるために今日でも必要とされますが、現代の視聴者のためのパッケージ化を進める必要があります。

私はこれを6年前に書いた頃にはまだ、デジタルの動乱や、チャネルとコンテンツ、ライフスタイルのトレンド、オーディエンスが著しいスピードで変化するテクノロジーの進歩は見当たらず、紙媒体でのメディアが主流でした。つまり、これまでの行為が、現在のEsplanadeのデジタルコンテンツに通じているのです。芸術センターは今や雑誌を発行していませんが、デジタルメディアを通して舞台芸術の経験を拡張し、16年間にわたる現代/伝統的なアジアの舞台芸術に関するアーカイブを活用して発表と制作を続けた豊富なメディアの数々は、明らかに過去からの脱却を成功させました。聴衆の育成や教育の目的で、ビデオやクイズから長編のコレクションまで、さまざまなフォーマットでアートに関するデジタルコンテンツを制作し、ウェブサイトやソーシャルチャンネルを通じて定期的に配信しています。現在では、視聴者がより鋭く舞台芸術を体験できるように、マイクロサイトと新しいメディアブランドを立ち上げ、洞察に富むキュレーション、知識とアーカイブのコンテンツづくりに注力しています。聴衆の多くはシンガポールにいると考えられますが、二次的な聴衆は地域を越え、国を越え、アジアの舞台芸術への知見をさらに深めることに関心を示すようになる、と考えられます。

Esplanadeと台湾の国立劇場コンサートホールは、どちらも公的資金により設立されています。デジタルへの転換に伴い、芸術の報道は、専門的な公的資金収入やクラウドファンディングモデルへと推移し、利益獲得志向の旧来のメディアからは遠ざかっています。その理由は、広告収入減少のために芸術の報道も減少し、多くの場合には非営利活動と見なされるようになり、安定した広告収入源ではなくなったことにあります。

最後に、アジアのメディアは非常に多様な社会政治的、経済的、文化的な文脈の中で運営されていることに注意することが重要です。シンガポールとマレーシアの違いを鑑みると、この二国は1965年までは同じ歴史を共有していましたが、その後は別々の道を歩むようになりました。マレーシアはサブスクリプションに基づく独立性の高いメディアの環境要因が大きく、1999年に始まったMalaysiakiniのように、社会政治的な影響のもと、サブスクリプションと寄付、広告により運営されてきました。首都クアラルンプールでは、精力的な芸術活動の集中が見られますが、一般的には芸術には資金が乏しく、学校カリキュラムにおける芸術教育の欠如も芸術へのサポートに制限をかけています。その結果、かつてはKakiseniやArteriのような、芸術ニュースやレビューを中心に展開をしていた独立系サイトが、批評やイベントのルポタージュ、クリエイティブ系プロフェッショナルの能力開発やネットワーキングへと焦点を移しました。New Straits TimesやThe Starといった従来のメディアが芸術について報道することは、もはやなくなりました。それにもかかわらず、マレーシアの美術作家や評論家は活発的に広範で活動しており、ダンスプロデューサーで評論家のBilqis Hijjasは、若手作家によるレビューのためのレビューサイト「Critics Republic」を立ち上げました。また、Kakiseniのチームの裏ではKathy RowlandとJenny DaneelsがシンガポールでArtsEquatorを立ち上げ、東南アジアの舞台芸術に関するレビュー、解説、総合ニュースを提供する独立サイトを運営するようになりました。

 対照的に、シンガポールの市場は小さくとも、資金調達やインフラ面で芸術を支えています。小学校のカリキュラムや学校生活にも芸術教育は織り込まれており、クリエイティブアート専門の中等・高等教育機関等も存在します。マレーシアとは異なり、シンガポールには芸術メディアの存在がみられますが、5年前とは大きく異なる様相です。言うまでもなく、西ヨーロッパでは豊かさ、共通市場、歴史的な芸術と文化への愛顧、表現の自由、そして実務家や文化仲介者への認識が、それぞれの国を越えて、芸術メディアに活気をもたらしてきました。その対称となるアジアの芸術メディアについて考察する時には、アジアは決して1つではなく、多数のアジアがあるということです。

Print’s heyday – discovery through long-form and the critic

紙媒体の全盛期:長編と批評を通した発見

1990年代以降は、影響力のある新聞や雑誌評論家の全盛期。作品やアーティストの破壊と創造が、文化的シーンの発展の軌跡を形成していきました。

卵と鶏のような関係性の中で影響は波及するようになりました。i)街であらゆる演劇・コンサート・展覧会を視聴し、業界の通底概念に理解のある記者や編集者の知識と露出。ii) 予想外の広告収入と主要な活字媒体の流通による、記者へのリーダーシップと仕事の安定性が与えた、何年にもわたる継続的な仕事の保証。たとえ読者層の一部しか芸術への関心を示さないにしても、社会的影響力の一部と見なされる知的な側面が、芸術から読み取れるためです。当然のことながら、これは影響力のある活字メディアとその居住地域の作家を取り巻くエリート主義の前兆でした。しかし、自然的に発生する読者層からの反応は、代替メディアの発現に対する声の高まりでした。シンガポールやその他の地域で、インターネットが普及するよりも前から高まっていた声です。

公共の利益という名のもとに、広範囲にわたり、かつ深化する主流の報道は、活字媒体における思潮を上向きに揺るがせ、「メインストリーム」という言葉がキーワードとなりました。シンガポールのアートジャーナリスト兼シアター記者として、私はビッグバンフェスティバルや小さなブラックボックスシアタースタジオ、リハーサル、そしてオープニングナイトで、アーティストから政策立案者、そしてプロデューサーまで、誰とでも交流の機会を持ちました。彼らがジャーナリズムの用語で言うように、各地を”パトロール”し、読者とは芸術の発展におけるあらゆる浮き沈みを共有しました。週の前半には週に2、3回の演劇作品を見直し、古いIBMのデスクトップで記事を打ち直すために、ショーが終わってからも夜遅くまでオフィスに戻っていましたた。無線インターネット接続ができるようになる前のことです。

私のキャリアの大部分を過ごしたThe Straits  Times’ Lifeのセクションは、アート編集者を務めた十年間の中間地点で、長編の脚本を紹介することへのコミットメントもありました。編集者として、私はアジアのフォーラムシアターの開発を担い、1,500語ほどのQ&A形式の対話をまとめました。ジャンルや世代を超えたアーティスト達が大きなアイデアを発掘したこの対話は、厳粛な芸術誌や雑誌に掲載されても場違いではないような内容です。

シンガポールでは特定の政党が支配的で、The Straits Timesのページは規範の変化と視点形成のバロメーターと捉えられ、精査されました。硬派記事や政治記者よりも、視点形成を緩やかに行えるアーティスト達は、批判的、挑発的であることを前提に、自分たちの作品を通して表現をしていきました。新聞掲載のための芸術記者として、社会情勢の過敏さのためにコラムやレビューを出版物から撤回したことは一度もありませんでした。芸術における文化政策や検閲の決定に批判する私や同僚のコラムを見るのは珍しくなく、社会の脈動としての芸術、そして声なき声を言葉にする権限を与えられた芸術を通して、ある種のダイナミズムを与えたのでした。

シンガポールでは、シンガポールプレスホールディングス(SPH)が所有するThe Straits Timesの他に、芸術報道のためにThe Business Timesや中国語での日刊紙Lianhe Zaobaoがあります。アートに関する記述を配分または配分するためのこれら主流の報道機関はSPHと、シンガポールのほかのメディアグループ企業が所有するMediaCorpが所有しています。しかし近年、シンガポールの従来メディアでは芸術の存在感が縮小している上、紙媒体による広告収入も減少しているため、広告主から人気を得やすい報道を優先する必要がありました。

ソーシャルメディア以前やスマートフォン以前の時代に、紙媒体のメディアが支配的であった時、そのような幅広いメインストリームの芸術報道や、詳細コンテンツは、アーティストと読者にとって何を意味していたのでしょうか。芸術家にとって、様々なグループと愛憎の関係性を持つことは不可避で、芸術作家、ジャーナリスト、批評家、それぞれが自己作品の最も大切な観客です。さまざまな芸術家のキャリアの軌跡に、カジュアルに出たり入ったりするような常連客は、黙ってはいられないでしょう。

聴衆にとっては、芸術や文化の舞台における展開を、新聞をめくりながら見ることができます。目を引く見出しや写真が、最初は思ってもみなかったような記事に無意識的に誘導して、その過程で気づきもしなかったトレンドや発展を知ることになるかもしれません。時間を経て、より目の肥えた読者を育て、聴衆のリーダーシップを磨く可能性があります。

著名なシンガポールのインディーズ音楽評論家Lim Cheng Tjuと、DJ X’Ho(Chris Ho)の影響について2017年に書かれた未発表のインタビューでは、音楽編集者Hidzir JunainiがChris HoのコラムをThe Straits Timesで読んだことについての話がありました。最初に紙媒体で、1985年から2000年代にかけてはオンラインで出版された代替的な音楽雑誌BigOの中の記述です。以前、東南アジアの音楽ニュースとレビューサイトBandwagonの編集者であったHidzirは、自分がChris Hoの作品に出会うまでは自分のことを「カジュアルな音楽ファンだ」と認識していたそう。「私に音楽を構造と技術性の観点だけでなく、社会的、政治的な文脈における価値の観点からより深く考えさせるきっかけを与えました。」と話し、続けて音楽ジャーナリズムの状態についてもコメントしました:

誰でも自分のサイトを開設し、自分の意見やレビュー、批判を申し出ることができるのは素晴らしいと思います。実際、このDIYの姿勢は「正当な」出版物で許されるよりも、誠実で多様性に富む文章につながります。つまり、オープンマイク·ナイトのようなものです。内容の質が保証されないままに、圧倒的な情報、記事、プレイリスト、ブログの投稿が、毎秒、毎日、あなたのところへやってきます。なので、あなたの興味に一致するものだけを消費するようにフィルタリングしたいと思うのは当然です。その結果、自分と志を同じくする人々やコミュニティとつながり、話し合うことができるのは素晴らしいことですが、自分の意見を誇張するための、誇大宣伝の反響室を形成してしまう、という危険もあります。Chris Hoは、まるで操縦室にいる子供のような私に対して、説得力のある雄弁な書きぶりで新しい発見をするのを手伝ってくれたのです。

重要なことは、インターネットとソーシャルメディアにおける、誇張された視点やコメントの民主化の全ては、広告、関心層、そしてソーシャルメディアプラットフォームのアルゴリズムによって裏付けられ、左右されていることです。何かを消費して、何かを「好き」と思えば、その供給をより多く受け続けるでしょう。そして、ニュースや解説が全てソーシャルプラットフォームから発信されているのであれば、ますます数が増えるデジタルネイティブと同じく、そのコンテンツの範疇外にあるものを探し出せることはないでしょう。

In with the new – funding models, media formats

門出 ー資金調達モデルと、メディアのフォーマット

 私は以前に公的資金による芸術メディアのモデルについて話しましたが、シンガポールでは、国立アーツカウンシル(NAC)がこの分野の原動力となっています。1990年代後半から2000年代初頭にかけて、この団体は芸術ラジオ局Passion 99.5に資金を供給しました。現在では、アーツカウンシルは2つのイニシアチブの背後にあります。Aリストシンガポール、ユーザーがイベントのリストと推薦を検索できるアート文化のポータルサイト、A List Singaporeと、シンガポールの音楽を宣伝するマイクロサイト、Hear65です。

また、設立3年に満たない、NACが資金を供給したArtsEquatorです。東南アジアの芸術関係者を主対象とした専門サイトで、深みのあるレビューと批判を求めており、より目の肥えた観客を対象としています。 NACの資金提供があっても、ArtsEquatorは規制や検閲等に関する物議を醸す作品や関心問題に対する、自由な意見の表明を止めることはできませんでした。しかし、シンガポールのような場所での緊張の高まりが生じた場合には、報道やアーティストへの焦点を当てるのではなく、文化に関する論説、さらには政治へ焦点を当てることによって、芸術と時事問題の境界を曖昧にするアプローチをとるべきです。そのようなアプローチを用いて、芸術を「ニッチ」なものであるという考えを和らげ、「芸術のための芸術」という視点を形成し、芸術メディアの政治的中立性を薄め、公的資金を脅威下に置くことができます。

公的資金に代わる資金調達方法は、特に政府や企業の制約がない越境型、地域型の、メディアのためのクラウドファンディングです。その一例がAsymptoteです。4半期ごとに実施され、翻訳された世界文学のためのWebサイトで、今で5年が経ちます。創立編集者の出身地であるシンガポールにて設立され、アジアを含む世界中の編集者に貢献しています。寄付者は10ドルから5,000ドル、またはそれ以上の範囲の金額を提供し、寄付者のリストはウェブサイトで公開されています。もう1つの例は、2015年にカンボジアで出版され、四半期毎に発刊される英語の文学雑誌、Mekong Reviewです。最近では、タイ、シンガポール、香港、オーストラリアを含む8か国で販売され、最近ではクラウドファンディングキャンペーンを開始しました。資金調達の不確実性がクラウドファンディングでは特に高いのは事実ですが、読者や聴衆に支えられるコンテンツは、読者と聴衆のために存在するため、持続可能性を担保するためにも、クラウドファンディング の挑戦は避けられません。

メディアのフォーマットとチャネル、近年のポッドキャストのブームは、特にミレニアル世代のラジオへの回帰を後押しすることとなりました。ビジネスプロフェッショナルをターゲット層とする、マレーシアのBFMラジオのような主流ラジオチャネルが、献身的に芸術や文化プログラムについて放送したことにもつながりました。ミレニアム世代の友人たちは、何かを読むよりも、インタビューやレビューを聴くことがますます多くなっていると話します。スマートフォンで何かを聴きながらマルチタスクをして、オンラインの音楽配信サービスを使用。視覚芸術とも言えるInstagramから、舞台芸術のためのビデオやプレイリストまで、カジュアルアートの聴衆、ミレニアル世代、またはGen-Z(1990年代半ば以降に生まれた世代)まで、あらゆる対象層を惹きつけるデジタルフォーマットがあります。その過程で、より厳粛な芸術のコンテンツにも目を向けるきっかけが作れる可能性もあります。同時に、出版社がノスタルジーを感じながら紙媒体のメディアに郷愁を向けることもあります。Mekong Reviewの編集者Minh Bui Jonesは:

ある人々は活字で読むのを好み、喜んで紙媒体に対して代金を払う。そして、印刷物の中身に対して代金を払うことは世代間を越えた習慣です…あなたが紙媒体の代金を払うとき、印刷費用、印刷機から販売店への輸送費等、印刷物の運搬に対しても費用を支払っていることを知っています。だから支払っているのはコンテンツだけでなく、店の脇にコンテンツを届けるという物理的な努力でもあります。

Community-building: from the “town square” to “omakase”

コミュニティ・ビルディング:タウンスクエアから、おまかせ

今日のアートメディア出版社または所有者は、ビジネスモデルを構築し、持続可能性のあるモデルと適切なコンテントやフォーマットを識別することから始め、プロダクトを開発します。次のステップは、聴衆の開発、つまり聴衆と話し、グループ間の断絶やインタレストグループを超えて基盤を拡大し続けることです。

まず、ソーシャルチャネル上で人々がブランドよりも熱心に個々のインフルエンサーをフォローし、その繋がりを感じる際に、いかに読者や視聴者のコミュニティを構築するのでしょうか。このつながりは、個人的な投稿を支持するようにFacebookのアルゴリズムが組み込まれているため、より多くの支持層を必要とするブランドや組織の宣伝を余儀なくされています。「インフルエンサー」は、レストランや美容製品を売り込むライフスタイルのインフルエンサーを指す気まぐれな言葉になりがちですが、私は中立的な意味で、社会的な影響力を持つ著名な個人を支持しています。すべてのアジアの国々において、芸術と文化の影響力を持つインフルエンサーがいます。シンガポールでは、芸術と社会政治的活動の両方にまたがるインフルエンサーは尊敬され、勇敢なシンガポールの劇作家であるAlfian Sa’atのように2万人のフォロワーを持つ人もいます。政府の制作から彼が出演する作品まで、週に1回、あるいは1日1回、Alfainの投稿するFacebookの記事を読み、従来のメディアも新しいメディアから情報を仕入れ、ますます多くの人々が彼についてのニュースを読んでいます。彼の投稿はシンガポールの他のニュースサイトでも定期的にピックアップされ、報道されています。

アジアの芸術メディア団体は、影響力のある作家に執筆を依頼しています。Alfainは時折、ArtsEquatorのためにコラムを書き、Esplanadeの上で、有名なインドの作家Devdutt Pattanaikと協業しました。そしてヒンズー教とその比較神話に関する本はベストセラーです。Salman Rushdieはく17万人以上のフォロワーをFacebookに抱えており、EsplanadeウェブサイトのLearnセクションに投稿するために、ヒンドゥー神話におけるジェンダーについて、私たちのためにエッセイを書くよう依頼しました。

影響力のある人物の支持者に対してアピールすることによる芸術メディアのコンテンツ範囲拡大と、共鳴の効果の高まりの一方で、編集者や出版社として私たちが聴衆とより深くそして建設的に関わる方法については疑問が残ります。ニュースの消費や見解に対する見方は変わりました。アメリカのテクノプレナーであるChikai OhazamaがTechCrunchの最近のコラムに書いているように、「自分でコメントをしていなくても、ニュースは公の会話の中に存在し、友人や有名人からの投稿もニュースそのもの。これらの公の会話は非常に有毒です。人々が投稿から逃げる方法を探しているのはまさにそのためですが、一方で皆がダイアルを0に変えて、朝食を食べながら新聞を読んでいる日には戻りたくないだろうと思います。」

日本の高級レストランでは、特に小さな創作料理屋では、料理は料理人が事前に決めている、という伝統があります。料理人の前のカウンターに座り、料理人が料理を準備している間は、彼と話をしながら料理を作っているのを見ることができます。この「オマカセ」のアナロジーを使って、Ohamazaは、このように私たちは日々ニュースを消費している、と示唆しています。アルゴリズムが「共通項の多い人々」へ意見を集約する傾向がある、ソーシャルネットワークの「町の広場」からEメールのニュースレターおよびメッセージングサービスまで、意見を同じくする個人同士の密接なグループ内でやりとりをすることができます。そのため、彼のコラムのタイトルは「ニュースの未来は信頼できる声を持った小グループでの会話」とされ、プライバシー重視のメッセージングとソーシャルネットワーキングプラットフォームを構築するというソーシャルネットワークのビジョンに関するFacebook CEOのMark Zuckerbergの発表に対する回答の一部としてまとめました。Facebookは多々の欠陥をきっかけに、ユーザーの個人情報を誤って扱うようになりました。

これをEsplanadeでやっていることに当てはめるなら、異なる観客層のための会員制プログラム、若いアーティストのためのメンター制度、密接に連携するベテランと新興のアーティストのような、現実のコミュニティを、どのようにオンラインスペースへと案内することができるのでしょうか。オンラインとオフラインの両方でこれらのコミュニティを強化することは、芸術メディアだからこそ新たに考え出すことができます。なぜなら、観客層を築き、観客が芸術に対して所有権や、関与の感覚を感じる建設的対話のメカニズムを作りたいからです。未知の領域ではありますが、テクノロジーがプライベートメッセージングの可能性の限界を押し広げ、ニュースフィードとの収斂をもたらすにつれて、この方向に進む可能性は広がります。

Deep diving and the next generation 

次世代への潜水

芸術やメディアの分野における基礎は、ストーリーテリングの工夫と洞察の深さにあります。初心者のために芸術を分かりやすく概説し、一般の芸術家の理解を深め、いつも見ているものに対して新鮮な文脈を与えるためです。私が今までで最も誇りに思うEsplanadeで行ったデジタル表現は、ストーリーテリングと洞察の双方が創造的であり、読者または視聴者に向かって飛び出すような方法が合わさったものです。

その一例が、最も古く最も広く演奏されているインドの古典舞踊形式のバラタナティヤムについて紹介した紹介曲です。フットワークや表情とは別に、ストーリーテリングの重要な要素の1つは、ムードラと呼ばれる手のジェスチャーがあります。私たちの編集チームは外部のビデオグラファーやモーショングラフィックデザイナーと共同で、学生と一般の観客を対象とした短い紹介ビデオを制作しました。アニメーションとソロのクローズアップの組み合わせを通して、ムードラを紹介しました。バラタナティヤムダンサーは物語を語るために彼女の目、体、そして身振りを使います。そして彼女は彼女の手で、ライオン、ネズミ、優越感、ネット、そして拘束から解放する行為を表すのです。ビデオにはフリップカード推測ゲームも含むインタラクティブな機能が組み込まれています。特定のムードラや手のジェスチャーが何を表しているのかを推測してから、画像を裏返して正しい数を確認します。このビデオとインタラクティブな機能は、これまでに見られた私たちの作品の中でも、最も突出した作品の1つです。注目すべき重要なことは、私たちのコンテンツチームは、インドの芸術に精通しており、パフォーマーと私たちを繋いだEsplanadeのKalaa Utsavamのベテランプロデューサーとの話し合いと密接な協力関係から、編集上の大きな創造を得たことです。

もう1つの例は、長編の機能的な執筆の分野ですが、私たちがシンガポールとアジアの実践者に対して「アジアの演劇作家」と命名した一連の作品です。特に、このシリーズには2つの特徴があります。どちらもシンガポールの演劇作家たちが彼らの独特な、あるいは境界を超えた作品で認められている彼らのキャリアをプロファイリングしたことのある、経験豊かな芸術作家批評家によって書かれました。一つ目の作品は、シンガポールの劇作家であり、上演法に長けたZulfadli Rashidは、マレー語の劇場にて、これまで過小評価をされてきましたが、極めて成長力の高い詩的勢力です。劇作家で批評家のNabilah Saidによって書かれたこの作品は、2018年7月にEsplanadeから依頼されたZulfadliの機知に富んだ音楽劇作品Alkesahの初演の直前に出版されました。それ以来、Alkesahは今年のThe Straits Times Lifeで最優秀作品にノミネートされました。結果的に、その年におけるThe Straits Times LifeのTheatre Awardsを受賞し、ZulfadliのBest Scriptとして認められました。もう一つの際立った作品は、シンガポールの中国語劇作家でありディレクターのLiu Xiaoyiによる実験的な作品です。空間と時間の境界を観客に挑戦した、この作品を執筆した演劇評論家Corrie Tanは、Xiaoyiの作品を長年かけて非常に綿密にフォローしてきました。結果としてこの作品は、賢明な批評にさらされ、ジャーナリズムを飛び交うこととなりました。近年、さらに注目度を増しています。

シンガポールの芸術に関する多くの、そして詳細な知識は、各断片を構成しました。実際に執筆を始める前に、私はZulfadliとXiaoyiの作品を長い間フォローしてきたEsplanadeプロデューサーと談話し、その後NabilahとCorrieがそれぞれの視点で作品に取り組めるようになり、Corrieの場合には学問を通して劇場での実戦を学ぶこととなりました。

しかし、今日ここにいる皆さん全員に対する私の質問は、次のCorrie Tanまたは次のNabilah Saidをどのように発掘し育成するかです。今日の必死の、タイムラプスのあるニュースルームやコンテンツ制作チームには、作家や芸術メディアのスペシャリストを訓練するための時間とリソースは、はるかに少なくなっています。芸術メディアのプラットフォームが資金の持続可能性を心配している限り、次世代の育成を考える余裕はなく、同様に若いアート愛好家には作家や評論家として成長するための滑走路がありません。

若手演劇やダンスの査読者のために講演やメンターシッププログラムを企画する際の、ArtsEquatorのナショナルアーツカウンシルの支援を大切にしているのはこのためです。Esplanadeでは長年にわたり、インディーズミュージックフェスティバルのBaybeatsの一環として、新進の音楽作家を対象としたメンターシッププログラムを実施しています。しかし、これらの会話は若い作家だけではなく、他の種類の作家や、芸術家、クリエイティブ、プロデューサーなどの分野の他の作家とのコラボレーションも必要です。彼らとの対話を進め、彼らの作品や知識をデジタルメディアやより一般的なオーディエンスに適応させ、それにより優れた作家とアートメディアのための優れたコンテンツの数を増やすことができます。

最後に、国境を越えて資金やデジタルコンテンツにアクセスするための障壁がほとんどないグローバル化した世界で、さらに成長を望むには、アジアのアートメディア出版社と作家の間のネットワーキングと知識共有を得なければなりません。文化的·社会政治的な文脈は個々に非常に異なるかもしれませんが、私たちの主題 – 芸術 – そのルーツの混成的性質、そして芸術生産とコラボレーションにおける異文化間のますますの繋がりは、さらに結びつきを強める可能性があります。今日のこの集会から得られた経験と知恵は限りのないものです。私は、その一部としてここにいられることを大変光栄に思います。そして、これからの交流と洞察の交換を楽しみにしています。